1年生後期、人文社会科学系、月曜日1時限
同時に開講される社会学との選択必修。
2021-12-15, スライドをすべて削除。
ずっとずっと、更新を忘れていた。
With COVID-19
以下に掲載するのは授業で用いたスライドです。 ご参考までにどうぞ。 もとい。 きちんと確認して勉強するように。
pdf形式のファイルにしてあります。 リンクをクリックすると、 授業時に知らせた、 文書を開くためのパスワード(オープン?パスワード)の入力が要求されます。 なお、 授業終了後にそれが必要だと私によって判断された場合、 改訂されていることがあります。
以下はCOVID-19以前の文章。 記録として残してあるのだと理解してください。
哲学(Philosophie, philosophy)と呼ばれるながきにわたる人間的営みがこれまで論究の対象としてきた事柄や論究の対象としうる事柄は、 非常に多岐にわたります。 そしてそれらの事柄を哲学以外の個別諸科学に対して領域的に限定することが、 現在でもできないわけではありません (そうすることに意味があるかどうかは別の話)。 また、 それがなければ立ちゆかないこと、 いわば、 哲学屋の暗黙知的なものとなる必須の事項的知識が、 哲学に存在しないわけでもありません。 けれども、 「philosophierenは学びうるが、Philosophieは学びえない」という カント(Immanuel Kant, 1724-1804)の言葉は、 やはり、 あくまでも正しい言葉です。
反省的かつ一般的な態度のもとで(その態度をも意識化?問題化しつつ)、 言葉の真正の意味での批判や、 概念的可能性に対する想像力と感受性を失わない推論を試み続ける営み、 あるいは、 ひらたく言って、 「このことを、 こうとしか考えられない、 この頭」を拒否し続ける試み、 そういう営みが、 哲学の少なくとも一つの姿です。
「このことを、こうとしか考えられないこの頭」という台詞は、 確か埴谷雄高の言葉だったと記憶しています。 アンケートのようなものに答えて、 埴谷は「これが私は大嫌いだ」と言ってました。
この授業は、 そういう営みの一端を展開することが目標です。
授業は、 プレゼンテーション?アプリケーションを用いて、 基本的に講述形式で行ないます。 私は普段、 出席をとったりしません。 時間の無駄。 私の趣味にも合わない。 大学の授業は、 「自分のために、 自分で勉強するために、 参加する」ものです。 こういう気持ちがない人は、 そもそも教室に来なくてよろしい。 出席なんぞをとると、 いなくていい人間がいることになって、 教室の空気が澱みます。 そうはいっても、 話の流れというものがありますから、 理解のためにも、 単位取得のためにも(?)、 選択したかぎり、 あんまり欠席しない方がいいでしょう。 よく欠席しているけどねえ、 諸君。
医学部の学生が対象なので、こういうテーマです。 科学哲学的ならびに科学史的な観点から、 「病気」そのものについてアプローチしていきます。
人間のからだには色々な出来事が起こりますが、 そのなかでも特定の、 他の出来事とは区別可能な事態が、 「病気」と名づけられるのはどういうことなのか。 そう名づけられることによって、 人々は、 医療者は、 何を考え、 何を行なうことになるのか。 たとえばそういった基本的な事柄を、 色々と考えていきます。
「病気に関する理論と実践、もしくは知識と経験」 、 「病気を説明するということ」 、 「病気の原因という概念」 、 この三つくらいが通奏低音になります。
ただし、 一般的抽象的な次元ばかりになってしまうと難しいでしょう。
そこで、 できるだけ具体的事例を取り上げ、 その事例を通じて上記のような事柄にアプローチします。 ただし、これまでより実例の取り上げ方を自由にして、 思考の展開や、その原理、前提により多く注目する予定です。 つまり、 たとえばHelicobacter pyloriにかかわる実例を取り上げるとしたら、 それをめぐる実際のストーリーを追跡もするでしょうが、 そのこと自体はこの授業にとって重大事ではない。 そのストーリを成立させる思考?論理?原理?背景が重大事。 medicineの営みがもっている多面性?多層性をできるだけ話し、 考えてみるつもりです。 「多」なので上手にきれいに話すのは難しいのだけれど、 まあ、 やってみましょう。
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